始めに言っておきますが、僕はドラゴンズファンです(野球モノの本を紹介するときのお約束)
カバーの返しに「ベースボール・マガジン社が贈る プロ野球球団ドラマシリーズ」として、オリオンズと西武ライオンズの記載があるので、多分シリーズものだとは思う。他のはまともに読んでいないのでどんなものか分からないけども、この本は面白かった。その理由は筆者の本音がたくさんでていたから、だと思う。特に「はじめに」は必読。飛ばしちゃダメ。
筆者の永井氏は”南海ホークス”のファンであり、”福岡ソフトバンクホークス”のファンでは無い(少なくとも同じ熱量では応援していない、と思う)。自分が応援していた球団が無くなってしまったファン、-”野球難民”という言葉を利用しているようだけど-という立ち位置で、自分が応援していた南海ホークスの歴史を、球団史とか定説として言われていることを、複数の文献を紹介しながら多面的に述べ、伝説を緩やかに否定しながら進めていく…
例えば、「グラウンドに銭が落ちている」は鶴岡「親分」の言葉では無いし、クイックモーションもささやき戦術も野村克也氏の前にいくつかの前例があり、クイックモーションに至ってはノムさんはやれと言っただけであとはピッチャー陣に任せたとさえ読める。この辺、球辞宛ではどのように描かれていたか気になる。
ん?こう書くと 白石 雅彦 氏が書いているウルトラシリーズの一連の書籍(結構書いてます)と同じだな。ただ白石氏の書籍と違うのは南海ホークスに対する愛というか偉大なチームを紹介しなければいけないという使命感が溢れていることだろうか。所々に読売巨人軍と阪神タイガースに対する私怨が混じっているのが面白い。なにせすべての”巨人”という表現にカギカッコがついて「巨人」と書かれているのだ。これ特に注釈も何もないがドラゴンズファンの私には分かる。というかそこまでやるなら讀賣と書いてほしかった。 (( 一般的に「巨人」と言われるプロ野球球団の本名は”読売巨人軍”あるいは”東京読売ジャイアンツ”であり、「阪神」「中日」というのであれば「讀賣」となるべきところが、「巨人」と記載されることで読売新聞社のチームという性質を隠し、全国規模の人気を得ている、という理論。ちなみに中日ドラゴンズの応援団は「〇〇倒せ~」というコールをする際に”讀賣”とコールします。僕もこのサイトでは”讀賣”と(新聞社の)題字である旧字体で記載するパターンが多いです ))
それにしても、南海ホークスを語るとしたら鶴岡”親分”と野村氏なのだなあ。(別所引き抜きや杉浦氏も重要なピースではあることは十分承知で)という感想は持たざるを得ない。鶴岡氏の入団が1939年(南海軍2年目)で、野村氏の追放(と言って良いだろう)が1977年。そして1988年に南海ホークスが終焉するのだから二人で実質40年!戦後に限っても30年以上はこの二人でチームが動いていたという事実。そしてこの二人の仲が良くなかった事、野村氏への引継ぎがうまく行かなかった事、これらが南海ホークスが無くなってしまった理由なのだろう。御堂筋の日本一パレードからの鶴岡退任⇒蔭山氏への引継ぎ失敗による再就任⇒飯田監督の早期退任によるプレイングマネージャー就任⇒権力の集中による孤独が招いた解任劇…、書籍の後半は読んでて正直辛い。
やっぱり(少なくとも戦後直後を除けば)プレイングマネージャは良くない、色々な順序をすっ飛ばしているという事はチームがうまく引き継げていないという事なのだから。ドラゴンズも落合退任⇒高木監督⇒谷繁兼任監督、でチームが完全にぶっ壊れた感があるからな…そう考えるとスワローズは古田選手兼任監督以降をうまく乗り切っていると思う。野村「監督」が選手を育てた事でOBが優秀な指導者として多く残っているからできる技なのかもしれない。
…
アイドルファンの心得として、「推しは推せるときに推せ」という言葉がある。アイドル人生は(多くが)短命で、様々な理由で、ある日突然、表舞台から消えてしまう事もあるから応援したいときには全力で応援しよう、という意味だ。スポーツチームだと球団が無くなる、という事はあまり意識しないが、古い(と言って良いだろう)Jリーグファンが横浜フリューゲルスの悲劇を忘れないように、そういうことは起こるのだ、という認識を頭の片隅に置きつつ、普段のゲームを楽しみたいものです。
で、〆ようと思ったのだが、以前横浜DeNAベイスターズができたときに「モバゲーならファンを辞める」という著名人のコメントを、「それは違うだろう」と思った僕だが、今回の筆者の南海ホークスに固執する理由は何となく分かる気がする。何がどこまで変わると推しは推しで無くなるのだろう?ニックネーム?本拠地(スタジアム)?親会社?…前二つのどちらかと最後一つが短期間に発生するときなのかなぁ…
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